このブログはNHKとは関係のない個人(私)が、NHK FMラジオで放送された「ラジオ深夜便」の一部の番組内容をメモとして残しておくことを目的としています。ほぼ毎日の内容を不定期に更新していきます。
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二宮尊徳 映画館色つき

こころの時代 の記事(8件ごとに表示)

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2007/10/4木 世界の寄木細工と出会って(1) 考古学者 金子皓彦(かねこてるひこ) Thu Oct 04,2007
2007/7/27金 アンコール 園長先生のひとりごと(2) 幼稚園 園長 小塩節 (放送H19.4.6)  Fri Jul 27,2007
2007/7/26木 アンコール 園長先生のひとりごと(1) 幼稚園 園長 小塩節 (放送H19.4.5) Thu Jul 26,2007
2007/6/29金 アンコール 病んで目覚めた命の輝き(2) 評論家 俵萌子 H19.4.16 Fri Jun 29,2007
2007/6/28木 アンコール 病んで目覚めた命の輝き(1) 評論家 俵萌子 H19.4.15 Thu Jun 28,2007
2007/6/06水 気骨の女(ヒト)・渡辺はま子と モンテンルパ(2) ノンフィクション作家 中田整一 Wed Jun 06,2007
2007/6/05火 気骨の女(ヒト)・渡辺はま子と モンテンルパ(1) ノンフィクション作家 中田整一 Tue Jun 05,2007
2007/5/31木  アンコール 黄色い大地を緑に~中国植林活動の現場から(2) NPO緑の地球ネットワーク 事務局長 高見邦雄 H19.3.9 Thu May 31,2007
2007/5/30水 アンコール 黄色い大地を緑に~中国植林活動の現場から(1) NPO緑の地球ネットワーク 事務局長 高見邦雄 H19.3.8 Wed May 30,2007
2007/5/18金 コウノトリからのメッセージ(2) 豊岡市立コウノトリ文化舘 館長 松島與治郎 Fri May 18,2007
2007/5/17木 コウノトリからのメッセージ(1) 豊岡市立コウノトリ文化舘 館長 松島與治郎 Thu May 17,2007
2007/4/6金 園長先生のひとりごと(2)幼稚園園長 小塩節 Fri Apr 6,2007
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4:00~5:00JST NHK Radio Program: "RADIO SHINNYABIN"
ラジオ深夜便 こころの時代 Spiritual Age Songs
アンカー Anchor 川野一宇(Kawano-Kazuie)さん

  • 今年の夏、神奈川県民ホールで現代の日本工芸展があって、その中で寄木細工の展示会をした。
  • 楊枝入れからライティング・ビューロー(勉強机みたいなもの)いろいろ展示した。2000人も来て頂いて喜ばれた。私としては鼻高々。来年もやってくださいと言われた。
  • 寄木細工は正倉院展でも見られる。1200年まえから日本にある。シルクロードを経て西安、エジプトから伝わった。
  • 日本人は螺鈿(らでん)、漆(うるし)のほうに目が行って、寄木細工はあまりメジャーにならなかった。
  • スペイン,イタリア,フランス、イギリスにいくとどの町にも寄木細工がある。
  • 江戸時代になって、寄木細工が爆発的に作られるようになった。
  • 徳川三代将軍の頃、駿府(静岡市)の北にある浅間神社を建て直すときに木工職人が集められた。工事が終わっても職人達は故郷に帰らず、そこに住み着いて家具作りをはじめた。家具に飾りとして寄木細工を施した。
  • 静岡市は昭和15年に大火にあい、昭和20年に空襲にあって寄木細工は壊滅した。
  • 江戸時代には大名の参勤交代でみやげ物として寄木細工が売られていた。

  • コレクションは皆が集めているものだと集めにくい。(みんながやっていない)市場にあふれているものを集めると案外簡単に安くすばやく集められる。
  • 寄木細工を集め始めてから20年間で1万5千点になった。倉庫で保管している。家族には迷惑がられている(笑)。
  • 寄木細工があれば何処へでも行く。ロンドンに住んでいる友人が、ロンドン郊外のお宅で勉強机のようなものを「ミヤノシタ」と言っている、と教えてくれた。その方の先々代の人が日本人と結婚して日本から持っていったものだと分かった。箱根で作ったものだった。
  • 駿府では家具が多く、漆で仕上げていて今でも宝石のように輝いている。
  • 箱根はお土産が主で、小さいものが多い。仕上げは蝋仕上げ。明治の中ごろは大型の家具を箱根で作って外国に輸出した。
  • シーボルトが日本のコレクションとして駿府、箱根の寄木細工を買って帰国している。ライデンの博物館で見ることができる。

  • 寄木細工の古いものを系統的に集めているのは(私のほかには)いないだろう。私は昭和20年以前のものに限って集めている。
  • 寄木細工の包括的な研究書はないのでこれまでの展覧会の図録をまとめて一冊にしたいと考えている。
  • 考古学の研究をしてきた手法を寄木細工に当てはめ、調べることができた。産地、手法、時代、作者が解明されていくとドキドキする。

  • 九州の柳川のホテルに寄木細工の箪笥があることを知り、箪笥と対面して食事をしたことがある。(箱根から来た)箪笥と身の上話をして楽しかった。
  • 江戸時代から奇跡的に残っていた駿府の寄木細工の工場を中身全て貰い受けた。この資料により駿府の寄木細工を全て解明できた。
  • 下田市の市史編纂の方から、こんな資料が見つかりましたよとコピーを下さった。その中にはペリーが来たときに幕府に大砲をプレゼントし、その返礼として幕府は箱根の寄木細工の箪笥二さお(30両)を渡したとかかれてあった。日本の開国の一こまに箱根の寄木細工がかかわっていた。これからは日本の外交史にこのことを書き留めておいて欲しいと思います。

    続きは明日...

  • 金子皓彦(かねこてるひこ)1941年生まれ、つきみ野在住
    國學院大學で樋口清之教授の指導を受けて考古学を専攻。昭和30に卒業後、同大学の「考古学資料館」学芸員を務め、昭和62年からは東京女学館大学国際教養学部に移り、助教授、教授(考古学・博物館学)を経て今年の3月に退職。その間考古学者として日本各地の遺跡発掘に従事。報告書、論文を発表。また、日本全国・世界各国の博物館、骨董市をたずねさまざまなコレクションを実現した。全国の寄せ木細工、麦わら細工の世界的コレクター。それについての著書も多数ある。

  • たまたま去年、渋谷にある「塩とたばこの博物館」で麦藁細工にかんする講演会と麦藁細工の工作会があったので参加しました。そのときの講師が金子皓彦さんでした。寄木細工と麦藁細工は手法が異なりますが、見た目結構似ています。麦藁細工について楽しく情熱的に話される姿が思い出されました。(小生)
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4:00~5:00JST NHK Radio Program: "RADIO SHINNYABIN"
ラジオ深夜便 こころの時代 Spiritual Age Songs
アンカー Anchor 松本一路(Matsumoto-Ichiro)さん


4:00~5:00JST NHK Radio Program: "RADIO SHINNYABIN"
ラジオ深夜便 こころの時代 Spiritual Age Songs
アンカー Anchor 宮川泰夫(Miyakawa-Yasuo)さん


  • 明日は「園長先生のひとりごと(2)」が放送されます。
4:00~5:00JST NHK Radio Program: "RADIO SHINNYABIN"
ラジオ深夜便 こころの時代 Spiritual Age Songs
アンカー Anchor 松本一路(Matsumoto-Ichiro)さん
インタビュアー Interviewer 三宅進ディレクター

    昨日からの続き
  • 以前は私は傷をなめ合うような弱者の集まりには好感を持っていなかったが、同じ病気を持つ人間が感じあえる優しさがあることに気づいた。
  • お互いに優しさが通い始めたなあと思い、会員同士なじめた頃に(がんが)再発・転移して亡くなり始めた。2年近く悲しい思いをした。会から逃げ出したいと思った。
  • その死を堂々と見つめようと思ったときに自分が変わり始めた。
  • がん患者には、医師、看護師、家族、薬などが必要だが、それと同じように患者会が必要だと思うようになった。患者同士でないと分かり合えないものがあるからだ。
  • がん対策基本法がこの4月に成立した。
  • がん患者団体支援機構という日本のがん患者を横につなぐ全国的なNPOが出来た。がん患者で医師でもある三浦先生が始めたが、がんで亡くなったので、私(俵)が理事長を務めている。
  • 陶芸が今の私のストレス解消になっている。
  • 55歳から陶芸の勉強を始めた。熊本の八代で女性の窯元に弟子入りし、4年間、1ヶ月に10日ホテルに泊まって修行した。個展も出来るようになった。窯元から、独り善がりでなく売れるものを作るようにと教えられた。作品が売れたときにはほんとにうれしがった(笑)。
    赤城山のふもとの自然に囲まれた場所に俵萌子美術館がある。50の手習いでもここまで出来ると言うはげましも込めて作った。
  • 俵萌子美術館は毎年1,2月は休館で展示換えをして3月から開館している。
  • 「1・2の3で温泉に入る会」には以下の3つの約束がある。
      1 この会で知ったお互いのプライバシーは、大切に守り合います
      2 この会は、助け、助けられる会です。誰かを助けることによって、あなた自身が幸せになる会です
      3 この会を政治や宗教やセールスには、一切利用いたしません
  • 病気にはマイナスもあるが、病んでみて初めて分かることもある。人の弱さに対する理解が深まった。その分だけ豊かに生きられる。

  • 今月発売の雑誌ラジオ深夜便7月号にも「1・2の3で温泉に入る会」、「俵萌子美術館」の記事が載っています。(松本アンカー)

4:00~5:00JST NHK Radio Program: "RADIO SHINNYABIN"
ラジオ深夜便 こころの時代 Spiritual Age Songs
アンカー Anchor 宮川泰夫(Miyakawa-Yasuo)さん
 インタビュアー Interviewer 三宅進ディレクター

    俵萌子 昭和5年・1930年生まれ。現在76歳。50歳代半ばで陶芸をはじめる。65歳乳ガンの手術を受ける。5年前にガンを患った人のための会「1・2の3で温泉に入る会」をはじめる。
  • 最近ホテルで転んで腰の骨を圧迫骨折した。コルセットをしている。寝返りをするととても痛い。立ったまま、座ったままは大丈夫。
  • 乳がんで右の乳房を全摘する。
  • 2006年6月11日に群馬にある俵萌子美術館で50歳くらいの女性に会い、話をした。私は「ガンと私の共同生活」と言う本を書いていた。「あなたは何年ですか」(俵)。「18年経ちます」(その女性)。「私は5年と3ヶ月になります」(俵)。
  • その女性が帰り際に「俵さん温泉に入れますか」と聞いた。乳ガンの全摘手術をしたその女性は、温泉に入るとき脱衣所で視線を受けて身のすくむような思いをしたという。そこで私も正直に「私も入れません」と答えた。
  • 私はもう温泉に入ることは無いだろうと思っていたが、その女性は「私は温泉が大好きなの」といい、大好きだけど入れない無念さを語った。
  • そのときふと私が「じゃあ(乳がんの手術をした)同じような人が7,8人いたら、あなたは温泉に入れる?」と聞いたのが、患者会活動に首までどっぷりつかることになったきっかけになった。
  • 70歳を過ぎてパソコンを習い、自分のホームページを作って、いっしょに温泉に入る人の募集文を出したら、全国から400人の方々から応募があった。こんなに沢山の人が温泉に入れないことに気づき、そこから私の患者会活動が始まった。
  • 入会資格は、女性であれば何のガンかは問わない。
  • 「アメリカで乳がんと生きる」(マツイマチコ著)を読んで衝撃を受けた。乳房全摘を受けた自分の体が醜いと思っている間は、同じように障害のある人を醜いと思っていることと変わらない。
  • 自分が温泉に入れる人間にならなきゃだめなんだ、無い胸張って堂々と生きなきゃだめなんだとその本に教えられた。
  • 私は他の会員の方より半年ほど遅れて伊香保の温泉に入った。そのとき、脱衣所から温泉に入るとき会員の方々が私の周りを取り囲んで(私を隠して)くれた。温泉に入ったら向かい合った会員同士胸をなでて「大丈夫、きれいよ」と会話し合っていた。私はそのとき涙が出た。
  • 「(患者だからこそ分かる)やさしい気持ち」これが患者会の原点だと気づいた。自分で患者会を作っておきながらそのとき初めてそのことに気づいた。
  • 会員はガンが転移して一人,二人と亡くなっていった。はじめは(その訃報を)会報の編集後記で知らせていた。死から目をそらすのは良くない堂々と亡くなった方を悼むことにした。
  • 訃報欄を「あなたに会えてよかった」のページにして、会報の真中のページにしてメインページとした。
  • 会員を追悼するページを作ってくれて良かったと言う反響が来てうれしかった。
  • 美術館の近所の方で、幼い一人娘を持つ39歳の女性が、ガンの再発で亡くなったときは、変わってやりたいと思うほど悲しかった。
  • 若い方がガンで亡くなることを見てきて、後に残っている私が何かしてあげなかったらバチが当たる、と思う気持ちが今の私を患者会活動に駆り立てている。こんな日が来るとは思ってもみなかった。

4:00~5:00JST NHK Radio Program:"RADIO SHINNYABIN"
ラジオ深夜便 こころの時代 Spiritual Age
アンカー Anchor 須磨佳津江(Suma-Katsue)さん
 インタビュアー  河村陽子(Kawamura-Yoko)さん

    (昨日からの続き)渡辺はま子が帰国してモンテンルパ刑務所に慰問し、戦犯たちを帰国させるまでの話

  • 渡辺はま子は佐世保に帰国したとき兵隊達に対して「なんだ敗残兵になりやがって」という言葉をきいてショックを受ける。彼女の義侠心が燃え上がり、お国のために働いて来た人に対して自分が出来ることは何だろうと考え始めるようななる。
  • モンテンルパでは立派な写真と絵のアルバムを作っている。108人の受刑者(56人は死刑囚)の手札サイズの写真も貼り付けてある。
  • マスコミははま子のことがニュースになると売名批判をした。はま子の誠心を知っているモンテンルパの死刑囚達から手紙が来て、はま子のことを慰めている。
  • 昭和21年から戦犯の逮捕が始まり、モンテンルパに収容され昭和24年から戦犯裁判が行われた。このことはほとんどの日本人は知らなかった。はま子がこのことを知るのは昭和27年の1月であった。
  • 日本のフィリピン統治はひどいものだったので、フィリピン人の対日感情は悪かった。戦争で100万人ものフィリピン人が死んでいた。
  • はま子はすでに14人(6人はまったくの無罪だった)の死刑囚が処刑されたことを知ると、すぐさまフィリピンのキリノ大統領にほかの死刑囚の助命嘆願の手紙を書いた。やるべきと思ったことはすぐに行動にうつす人だった。
  • フィリピンは日本による戦争の被害をあがなうための賠償金を払ってほしかった。サンフランシスコ平和条約などの関係で日本はなかなか賠償金を払わなかったので、その見せしめとして14人の死刑囚が処刑されたふしがある。
  • 受刑者達が、自分達も『異国の丘』のような歌を作ろうと呼びかけあって作られたのが「ああモンテンルパの夜は更けて」だった。作詞は代田銀太郎(故人)、作曲は伊藤正康(存命)で両名とも死刑囚だった。 
  • 曲を作った二人は渡辺はま子さんに手直ししてもらおうと思って楽譜をはま子あてに送った。それがビクターより昭和27年の6月下旬にレコード化された。最初は売れなかったが徐々に売れていった。
  • フィリピンのモンテンルパでは教戒師の加賀尾秀忍、日本では復員局の植木信良、歌では渡辺はま子が救出運動を行った。

  • 実際にモンテンルパの刑務所で慰問をしたときの録音と、そのときアコーディオン伴奏で歌った「ああモンテンルパの夜は更けて」の録音を放送

  • 戦犯の家族には軍人恩給もなく肩身の狭い思いをしていた。
  • このときの録音を翌年の1月に東京放送(NHK)で放送し、大変な反響を呼ぶ。たまたまその放送を聞いていたオルゴール製作者の吉田義人(漢字は違うかも:渡辺はま子と旧知の間柄)は「ああモンテンルパの夜は更けて」のオルゴールを作ることになる。
  • はま子はお世話になったモンテンルパ刑務所の所長にそのオルゴールを贈ろうとして教戒師の加賀尾秀忍あてに発送した。加賀尾は考えがあってキリノ大統領に贈った。
  • キリノ大統領の最愛の妻と娘は、昭和20年、日米のマニラ市街戦の最中、日本軍の攻撃に巻き込まれて殺害されている。フィリピン人、キリノ大統領にとっては憎みて余りある日本人だったが、大統領特赦で全員減刑され日本に帰国する。
  • キリノ大統領の心を動かしたものは渡辺はま子の「ああモンテンルパの夜は更けて」の曲であった事は間違いない。
  • フィリピンの国民感情が厳しかったので、キリノは次の大統領選で落選する。
  • 代田銀太郎は「新憲法の9条は歩が金になったようなものだ。思想の威力が武力に勝るものだということをわれわれは信じるべきである。再軍備を唱える人は自ら戦場に出たらどうか。われわれは真っ平(ご免)だ。」ということを書き残している。
  • 戦後60年たち、私達は過去から学び、現在を考え、未来に歴史を伝える義務がある。渡辺はま子は自分の人生と歌を通して静かにそういう思いを伝えた人だと思う。それが象徴的なのが「ああモンテンルパの夜は更けて」の歌だと思う。

  • ああモンテンルパの夜は更けて」は舞台の予定がある。7月19日から22日まで池袋の東京芸術劇場で演じられる。

  • モンテンルパの刑務所で慰問をしたときの「ああモンテンルパの夜は更けて」は二番を受刑者全員が参加してうたっています。司会をしていたのが教戒師の加賀尾秀忍さんだそうです。
  • 「ああモンテンルパの夜は更けて」の舞台内容 → http://www.h3.dion.ne.jp/~drama8/
  • 東京芸術劇場のホームページ → http://www.geigeki.jp/index.html
  • 当ブログで渡辺はま子さんのことを書いた記事→ http://radioshinyabin.blog71.fc2.com/blog-entry-563.html
  • 中田整一さんの細かい話までは拾い起こしていませんが、聴いただけでもそのストーリーを映画化してほしいと思いました。小学生高学年用の絵本にしても良いのではないでしょうか。(小生)
  • 今回のこころの時代は渡辺はま子さんの内容だったので思わず力が入ってしまいました。(小生)
4:00~5:00JST NHK Radio Program:"RADIO SHINNYABIN"
ラジオ深夜便 こころの時代 Spiritual Age
アンカー Anchor 遠藤ふき子(Endoh-Fukiko)さん
 インタビュアー  河村陽子(Kawamura-Yoko)さん

    渡辺はま子(わたなべはまこ、明治43年・1910年10月27日生まれ - 平成11年・1999年12月31日死去)戦前から戦後にかけて活躍した日本の流行歌手。神奈川県横浜市出身。

    中田整一(なかた せいいち 昭和21年・1946年生まれ) 元NHK編集主幹、ディレクター。大正大学教授を経てノンフィクション作家。NHKの「戒厳指令『交信ヲ傍受セヨ』二・二六事件秘録」などの歴史ドキュメンタリーをてがける。

  • 渡辺はま子は激動の昭和の時代を生きてきた。歌を通して戦争の荷車を押していった。戦後日本人の生き方が180度変わったのにはま子は毅然として(国民を応援するという)生き方を変えなかった。
  • 1993年12月31日に89歳で渡辺はま子は亡くなる。
  • 亡くなるまでの3年間は寝たきりだった。介護をしていた娘さんが部屋の整理をしていると、「モンテンルパの夜は更けて」のまさにそのモンテンルパで歌ったときの録音テープが見つかったので聞かせたところ涙を流していた。その一週間後に亡くなった。
  • 遺言は「密葬にすること」だったので、公表しなかった。1月11日に喪が明けて遺族会「モンテン会」に知らせ、日本ビクターに伝わった。
  • はま子は文を書くのが好きで、昭和6年から昭和20年と昭和27年の克明な日記が出てきた。遺族の方に接触し、取材を申し込んで読むことが出来た。
  • 日本ビクターから歌謡曲を歌うようになる。昭和13年に「シナの夜」が大ヒットする。歌詞に戦争色は無かったが、当時の敵に対する謀略放送のテーマミュージックに使われ、米軍の兵士の間にも「China Night」の題名でヒットした。
  • 中国に二度慰問に行っている。
  • 昭和16年に父を亡くす。父の机の上には、はま子が中国大陸慰問中にはま子の母あてに送った手紙が保存されていた。はま子は父あての手紙を一通も書いていないことに気づきそれ以後ことあるごとに父のことを思い出すようになる。
  • 昭和19年の二度目の慰問は軍の徴用慰問であり、これは強制的に行くものであった。行き先、期間も告げられない。結局半年にわたる旅になった。
  • 6月16日の夜中に、大陸へ渡るために泊まっていた下関のホテルが空襲を受けた。中国の成都からきたB29の最初の空襲だった。
  • はま子は従軍記者ということで、身分は陸軍少佐だった。待遇は良かった。
  • 漢口では謀略放送に出演した。そのときの放送出力が10KWしかなかった。もし50KWあれば、蒋介石の居た重慶まで届いていた。そうだったら戦後罪に問われるところだった。
  • 慰問の途中で北京に行くと、まったく戦争の影が見えないことに驚く。昭和19年といえば日本では物が無くなり生活に苦労しているのに北京の市場には物があふれていた。
  • 慰問の旅の後半で、はま子はいっしょに行った妻子ある男の人に恋をしてしまう。はま子さんは一本気だけでなく人間としての幅も広い人だった。
  • 慰問から帰国してみると劇場は全て閉鎖され、レコードプレス機も供出されてしまっていて、歌うどころではなかった。
  • 昭和20年7月15日に再び中国へと新潟から慰問に出かけた。はま子は中国での燃えるような恋の思いを断ち切りたかったことと、前線の兵士達を慰問するという使命感もあった。
  • はま子は昭和20年8月15日は天津にいて敗戦の日を迎えた。そのとき、はま子は軍が今まで戦争を煽り国民に道義を説いてきたことがすべて覆った。そのことに対する不信感とこれから自分はどうすれば良いか分からなくなった。
  • 玉音放送を聞いた日の午後、はま子は汽車で北京にある軍の宿舎に戻る。当日の北京は雨、その日までは北京は平安だったが、翌日から軍が書類を焼き始め敗戦を実感した。
  • 天津にいた音楽仲間が「これから引き上げていく人たちを慰めるために天津に来て歌を歌ってくれないか」と誘ってきた。
  • 天津には兵站基地があり、そこは広くて50万人くらい収容できた。米軍の管轄下であったが、そこに舞台を作り、はま子は毎晩毎晩ステージをやった(歌を歌った)。
  • 天津に抑留されていた軍人に聞いてみたら、はま子は一番に帰国できたのに、自分はここにとどまって日本人を励ますのだと言い、やっと多くの日本人が帰国のめどのついた昭和21年の5月4日に帰国した。
  • 帰国して復員した兄を病院に見舞うが亡くなってしまう。

  • 続きは明日...
4:00~5:00JST ラジオ深夜便 こころの時代 Spiritual Age Songs
アンカー Anchor 川野一宇(Kawano-Kazuie)さん


  • Google earth で衛星写真を見てみると、中国は砂漠です。気候のぶれにより雨が少なくなったとき中国の人々は水不足に苦しむのではないかと心配です。経済成長より環境を回復させないと、歴史の中に滅び去った王朝の一つになる恐れが目の前に迫っているように思えます。
  • Google map で北京を見てみました。ズームアウトして周辺をご覧ください。→ http://maps.google.com/maps?q=Beijing,%20China&spn=.513611,.628281&t=k&hl=ja
4:00~5:00JST ラジオ深夜便 こころの時代 Spiritual Age Songs
アンカー Anchor 須磨佳津江(Suma-Katsue)さん


  • 高見邦雄さんのブログが5月29日に更新されていました。大同市街を流れるのが御河(ぎょが)。北京の重要な水源=桑干河(そうかんが)の最大の支流ですが、干上がっているそうです。→ http://blog.goo.ne.jp/takamik316
4:00~5:00JST ラジオ深夜便 こころの時代 Spiritual Age Songs
アンカー Anchor 迎康子(Mukai-Yasuko)さん
インタビュアー 上野重喜(Ueno-Shigeki)さん

  • 保護活動をやり始めたら途中で投げ出すことは出来ない。大変だった。
  • 生き物相手で、基本的には私(松島)一人でやらなければならなかったので、妻には負担を掛けたと思う。
  • 妻は大阪生まれの大阪育ち。初めの頃は24時間勤務があったので、妻はとても不安だったろうと思う。
  • ちょっとしたきっかけで、当時のソ連のハバロフスクからコウノトリを送ってもらえることとなった。6羽送ってもらった。全てその年に生まれた幼鳥だった。
  • 平成元年にコウノトリの卵が生まれた。最初は手を出さず、親鳥に任せようとした。何も知らないはずの親鳥が上手に雛を育てた。四半世紀ぶりにコウノトリの子育てを見た。
  • 昭和30年代に農薬汚染の問題をコウノトリが教えてくれた。
  • コウノトリが自然に還ることはもとより、私たち自身が自然に還ることの大切さが理解できた。
  • 農業の近代化により食糧生産が向上し、高度成長で生活が豊かになった。しかし、それによって私達が失ったものの大きさに気づいていなかった。
  • 私達は自然を食いつぶしてきた。本来は、自然の恵みを利用して生きていくものだ。そのことはコウノトリも人間も変わらない。
  • 二次的な自然(人間が手を入れた自然)がわれわれ日本人の生活を支えてきた。
  • コウノトリが安心して子育てしているこの地で私達も食料を生産し、生活している。
  • 放鳥した個体で産卵したものがあり,この5月には孵化するかもしれない。

  • コウノトリ観察日記を見る限り,まだ孵化していないようです。(小生)
  • 小生も昭和30、40年代を田舎で育ったので、日本の国土のすばらしい面とそれが汚染され失われていく過程をまじまじと見て育ちました。確かに高度成長は国民の生活を豊かにしたといえますが、価値のつけられていなかったもろもろのものを直接・間接に値段をつけて田舎から収奪し、集計しなおしただけだったのではないかと思っています。この世は基本的に「不生不滅、不垢不浄、不増不減」、div=0 ですから、システムで見ると変動はありえないわけで、偏在させて『経済が成長した』といっているに思えます。。(小生)
  • 松島さんの話していた「本来は、自然の恵みを利用して生きていくものだ。そのことはコウノトリも人間も変わらない。」の言葉が記憶に残りました。(小生)
追記 2007年5月20日 野生のコウノトリの卵が孵化しました。豊岡市コウノトリ文化館のホームページに詳細が載っています。→ http://www3.city.toyooka.lg.jp/kounotori/index.htm
2005年6月にコウノトリのふるさと切手も出ていました。切手の写真と記事はこちら→ http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-254.html
4:00~5:00JST ラジオ深夜便 こころの時代 Spiritual Age Songs
アンカー    川野一宇(Kawano-Kazuie)さん
 インタビュアー 上野重喜(Ueno-Shigeki)さん

  • このあたりではコウノトリは(兵庫県豊岡市)では「つる」と呼ばれていた。
  • 尻尾が黒いように見えるが、羽の先が黒いだけで、体のほかの部分は真っ白である。
  • 屋根の無い飼育場に120羽いる。飼育しているコウノトリは羽根の片方を少し切ってあり、高く飛べないようにしている。羽根が生え変わるので注意が要る。
  • 野生コウノトリの復活を目指している。
  • コウノトリは渡り鳥。江戸時代には留鳥化もしていた。当時の殿様がコウノトリを瑞鳥として保護していた時代もあった。
  • 昭和30年代から保護するようになった。私が昭和34年に高校の生物クラブに入っていて、コウノトリを観察したのがこの仕事に携わるきっかけとなった。
  • 最初はコウノトリの保護活動は民間の任意団体が活動していて、次に豊岡市、今は兵庫県が主体になってやっている。
  • 生息数が減ったので、捕獲して人工繁殖させようとした。一番最初、卵は産んだが孵化しなかった。
  • 昭和40年代は日本中の自然が破壊され汚染されていく時代だった。成鳥を育てることすら難しいことが分かった。
  • コウノトリは肉食で、一日に500~600g食べる。ドジョウ、淡水魚、カエル、バッタを捕って与えていたが、(大変なので)動物園に聞いてみて海産魚を与えられるようになった。
  • 卵のなかに残留農薬が検出されて、(このままでは)遺伝的に生きつづけられないことが分かり、切ない思いがした。
  • 豊岡盆地のコウノトリは昭和46年に野生のものが居なくなり、昭和61年2月に捕獲していた最後のものが死んで、死滅してしまった。
  • その他の地域で時々日本に迷い込んでくるコウノトリが(怪我などをして)捕獲され、ここに収容されている。
  • ロシアのハバロフスクにコウノトリがいることが分かり、こちらに送ってもらった。それが今日のコウノトリ復活の口火を切ることになった。
  • コウノトリと豊岡の人々が共存していた自然環境の復活の門口に立ったと思う。
  • 日本の自然環境の復活を目指したい。

続きは明日・・・
4:00~5:00JST ラジオ深夜便 こころの時代 Spiritual Age
アンカー 迎康子(Mukai-Yasuko)さん
 インタビュアー 上野重喜(Ueno-Shigeki)さん
  • 私が幼い時、幼稚園の卒園間際に、当時の園長から「(君は)一度いけないといわれた事はしない子だ。いい子だ」と誉めてくださった。そんないい子ではないのは分かっていたが、誉められたことはうれしくていつまでも覚えている。
  • 幼い頃私は虚弱児で、当時の小児科医から「自家中毒で小学6年までしか持つまい」といわれてますます引っ込みじあんになった。その後、旧制松本中学に入学して登山をするようになり元気になった。
  • 昔は未熟児、今は低体重児というが、保育器の中にいてピロリ菌もないのに胃潰瘍になる。理由がわからなかったが、母親(父親でも可)の裸の胸の上で心音を聞きかせ語り掛けをすると胃潰瘍が直った。これはカンガルー療法という。
  • 第一次大戦後、親を無くした乳幼児を収容していたが、人手がなくて言葉掛けをしないと子供の生存率が低かった。ベトナムでも言葉掛けをしない病院では死亡率が高かった。
  • お父さん、お母さんが赤ん坊に語り掛けをすることが大切。
  • 小さい子にはお話を聞かせるのが大変。話す自分の頭にイメージを浮かばせてそれを伝える。
  • ヨーロッパの教育は「1x1=1」はどういう意味かノートに書いて発表する。数式を覚えるのではない。抽象的な考え方のトレーニングをしている。だからお話や絵本の読み聞かせは大切。目の前にない世界を考える。
  • ドイツにいたとき、4歳の息子がドイツ語でグリム童話を朗々と暗誦して驚いた。ドイツの保育園の先生が子供たちを車座にして子供の目を見ながら暗誦して語ってくれたらしい。
  • ドイツでは女らしくしなさいといわれることは、目を見開いて姿勢良くして全世界の視線を引き付けることで、それを守っている。授業で歩き方をトレーニングしている。
  • ヨーロッパでは友達になると自宅で料理のもてなしをする。もてなされたら「おいしかった。ご馳走様」という。日本人も食事に招待されたら「おいしかった。ご馳走様」というようにしたいものである。
  • (「キリスト教の精神にのっとって教育なさっていますが」という問いに答えて)親や友人を通して天の愛がつたわってくる。また、その愛を自分から周りの人に伝える。幼いときから感謝の気持ちを持つことを(私の)幼稚園では教えています。
  • 小さい幼稚園の子供たちに「なぜ(Why)」という根源的な問いかけをされている思いをしますが、「どうやって(How)」という人生ではなく「なぜ」の問いかけを大切にすることを小さいときに種まきをしておきたい。それが私どもの幼児教育の願いです。
  • 目に見えない神様の愛が、慈しみが幼子(おさなご)達の上にいっぱい降り注いでいると思います。宗教の幼稚園は仏様、神社の幼稚園も同じだと思います。
  • 人を超えたものを見上げるということがどんなにすばらしいことか、それがいつかの孤独な自分を背負って歩いてくれた足跡だったのだ。そんなことを今朝も子供達に話してきたところでした。

    小塩節(おしお たかし)1931年生まれ
  • 東京大学卒。ドイツ・ケルン大学名誉文学博士、中央大学名誉教授。1997年からフェリス女学院長。2004年6月同理事長就任。NHKの語学講座の講師も勤める。
  • 小塩節さんは、終わりにカナダ人のメアリー・スチーブンス(聞き書きなのであってないかも)という人の詩を引用していました。以下の詩も聞き書きです。
    人生を振り返ってみると 長かった自分の人生の足跡がついている
    だが その足跡はひとつではない もう一人別の足跡が横に並んでついている
    その足跡は 子供の頃から神であると聞かされていた
    どんな境遇にいても 神様はそばにいてくださると
    ところが おかしなことにその足跡は時々一つになっている
    しかもそのときは自分がつらかった、苦しかった、悲しかった時である
    そういうときに足跡が一つになってるじゃないか
    神様はいてくれるって言われていたのに やっぱり私は孤独だったんじゃないか
    と思ったら 神様の声が聞こえてきた
    つらかった、苦しかった、悲しかったとき 私がおまえの体を背負ってあげたよ
    だから足跡はひとつだよ 
    また 二つになったね
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