このブログはNHKとは関係のない個人(私)が、NHK FMラジオで放送された「ラジオ深夜便」の一部の番組内容をメモとして残しておくことを目的としています。ほぼ毎日の内容を不定期に更新していきます。
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二宮尊徳 映画館色つき
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1:00~2:00JST NHK Radio Program: "RADIO SHINNYABIN"
ラジオ深夜便
アンカー Anchor 川野一宇(Kawano-Kazuie)さん

    こんなに変わった歴史の教科書  歴史研究家、高校教諭 河合敦 
  • 最も古いお金は「和同開珎」ではない
    和同開珎は8世紀初頭。10年前に7世紀後半(680年代)の地層から「富本銭(ふほんせん)」とよばれるお金が出土した。同時に出土した銅の量から9000枚ほど作られたことが分かった。
  • 聖徳太子はいなかった
    聖徳太子は日本書紀で作られ(捏造され)、実在しなかったと言う説が主流になった。『馬宿王子(聖徳太子)』と記述されることはある。
    以前の1万円札などに描かれていた聖徳太子の肖像画は聖徳太子が生きていた時代の100年ほど後のもの。絵に錫が描かれているが、太子存命の時代には錫は無かった。
    高校ではもう聖徳太子は取り上げられることは無いが、小中学校ではまだ聖徳太子はヒーロー。
  • 遣隋使
    今までは最初の遣隋使は607年とされていたが、中国側の資料で600年に(最初に)行ったことが分かっている。
    小野妹子が607年に遣隋使で天皇の親書「日の出る国の天子から日の沈む国の天子へ」を持っていったところ、中国の隋の皇帝から相当馬鹿にされた返書をもらったので、そのまま持って帰るともめごとになるので貴族達と相談して海賊に盗まれた事にしたのではないかと思う。(その証拠に)翌年小野妹子は危険を冒してまでまた遣隋船に乗って隋に行っている。
  • 源頼朝の肖像画
    今の高校の教科書からはその絵は消えている。伝源頼朝源頼朝といわれて伝わっている)と言うことで証拠が無い。
  • 鎌倉幕府成立の年
    あやふや。1192年(いいくに)といわれていたがそれは源頼朝が朝廷から征夷大将軍の位を授けられた年。
    1185年に守護・地頭を置くことが朝廷から許された。このことをもって鎌倉幕府成立とする説がある。
  • 鉄砲伝来
    種子島に鉄砲を伝えたポルトガル人は中国の海賊船に乗っていた。その船が難破して種子島に漂着した。
    そのとき伝えた鉄砲は東南アジア製。同時期に別のルートでも伝わっている。
  • 歴史上の人物が有名になると教科書に載るようになる。
    米百俵-小林虎三郎(戊辰戦争・長岡藩藩士・大参事)。硫黄島-栗林中将(栗林忠道・日本陸軍)
    新撰組は脚注に載る程度。有名だが歴史を動かすと言う点では大きく取り扱われない。
  • 教科書に載せて欲しい人
    立花宗茂(たちばな・むねしげ)関が原で西軍。領地を取り上げられるが、2代将軍の旗本になりコツコツやって領地を取り戻す。
    藤堂高虎(とうどう・たかとら)7度も主君を変えた戦国武将として知られる。築城術に長けていて、主君を変えてもやっていけた。そして大大名になった。徳川家康に徹底的にごまをすった。
  • 歴史教科書は相当変っている。
  • 先月京都に修学旅行で行った。京都に3泊した。奈良に行きたい生徒は行ってもよい。コースは生徒達が選ぶ。
  • 歴史を学ぶことによって自分の人生に役立てて欲しいと思う。
  • 「過去を学んで未来が見えてくる、いいお言葉です。」(川野アンカー)

    河合 敦(かわい・あつし、1965年生まれ)
     東京都出身の歴史作家・歴史研究家。現在は、高等学校で日本史を教えるかたわら、歴史書の執筆をおこなっている。 「世界一受けたい授業」などのテレビ番組に歴史評論家としてたびたび登場し、人気を博している。

  • 栗林忠道 硫黄島からの手紙』文藝春秋(2006年)を読んだことがあります。米国通で家庭人でもあった現地司令官が米軍側からも賞賛されるほど(精神論ではなく)合理的に戦いました。その努力も軍の中枢や政治家たちの舵取りがわるく、無駄になった例と考えられます。最近話題になった自衛隊の前航空幕僚長、田母神俊雄氏の論文(朝日新聞に載っていたもの)を読みましたが、(防衛省防衛研究所にある)戦史の勉強をしていなかったとおもえるような内容でした。政治家・軍人に限らず大きな組織を指揮する人は、よい未来を開くために過去の歴史に目を通して欲しいものです。(小生)
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1:00~2:00JST NHK Radio Program: "RADIO SHINNYABIN"
ラジオ深夜便 
アンカー Anchor 川野一宇(Kawano-Kazuie)さん

H19.4.19に放送されたものの再放送です。そのときの記事は下にあります。
http://radioshinyabin.blog71.fc2.com/blog-entry-560.html
  • 徳川恒孝 とくがわ・つねなり と読みます。
1:00~2:00JST NHK Radio Program: "RADIO SHINNYABIN"
ラジオ深夜便 
アンカー Anchor 川野一宇(Kawano-Kazuie)さん

    江戸の庶民は本が好き~大江戸出版事情~
     江戸東京博物館・館長 竹内誠

  • 元禄は上方が中心の文化。綿花、菜種油などの商品生産は上方が中心だった。
  • 元禄時代には江戸とその周辺の生産力は低く,上方からの下り物が多かったが、18世紀後半の田沼時代には江戸・関東の生産力が上方とほぼ同じくらいになった。
  • 江戸時代初期から教育熱は高かった。教育が一般に広まるのは江戸中期以降。
  • 一般通念として読み書きが出来ないのは恥じだ意識が都市、田舎に関係なく広まった。
  • 地方の豪農の中には書物をたくさん持っていて、図書館の機能を果たしているような事例も確認されている。
  • 従来の教育史では、明治政府のおこなった教育政策のおかげで明治の終わり頃には識字率が90%を越えたということだったが、それは明治政府の宣伝が入っていた。つまり、江戸と明治の落差が大きければ大きいほど明治政府が優れていることの証拠になる。
  • 幕末に外国人が来て日本人の識字率の高さに驚いている。また、女性も字の読める人が多いことに驚いている。
  • 洒落本はいわいる遊郭に行くときの話。岡場所の通になるための本。
  • 黄表紙は赤本・黒本の系譜を引く本の種類で、形式的には赤本・黒本と同じく子供向けの体裁を取っている。恋川春町作の「金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいぐわのゆめ)」(1775年)が最初の黄表紙であり、この本の表紙が黄色であったことからこのジャンルの本を黄表紙と呼んだ。
  • これが上方に逆輸出されて江戸文化が自己主張することになった。
  • 朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)の作による「文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくとをし)」は1万数千部も売れた。朋誠堂喜三二は秋田藩の江戸詰家老。
  • 滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」のような読み本(絵もあるが文字のみのページが多くある)も江戸人に読まれた。漢籍の素養の無い現代人にはその内容が十分には楽しめないが、寺子屋で教育を受けた江戸人には受け入れられた。
  • 「江戸っ子」という誇りを持った言葉は田沼時代(1780年代頃)から出てきた。
  • 幕末に来日した外国人が日本の子供達を見て、生き生きといてると驚いたことを記録に残している。その子供達が明治初期に社会の中堅として活躍した。
  • 江戸時代を褒め称える必要は無いが、今日の人と江戸時代の人を比べてどちらがよいかと問われると、すぐに答えの出るものではない。

  • 江戸東京博物館のホームページ→ http://www.edo-tokyo-museum.or.jp
     入場料は常設展の場合 一般 600円 など、団体・老人・学生割引あり 中学生(都内)・小学生・未就学児童 無料
     小生は5,6年前に江戸東京博物館行きました。変わった外観の建物です。
  • だいぶ以前に子供向けの「南総里見八犬伝」を子供が寝る前に読み聞かせしてやったことがあります。格闘シーンが多くてけっこう面白がっていました。ただ、「仁義礼智忠信孝悌」を解説しながら読むのは、読んでいる当の本人に知識が少ないのであまり伝わらなかったようです。江戸末期に出版されたので原文の言い回しもそれほどわかりにくくありません。長いですが、声に出して読みたい日本語の物語です。(小生)
2:00~3:00JST ラジオ深夜便 歴史に親しむ Histry
アンカー 川野一宇(Kawano-Kazuie)さん

    江戸時代が生み出したもの
  • 徳川恒孝(とくがわ つねなり) 徳川記念財団理事長 徳川宗家第十八代
  • 最後の徳川将軍慶喜(十五代将軍)は隠居したので、後継ぎは田安家から当主(家達)を迎え十六代目となる。その人は貴族院議長などをつとめた。その子供、徳川家正が十七代目当主になる。
  • 徳川家正は私(徳川恒孝)の母方のお爺さんに当たる。
  • 江戸時代は260年間戦争がなかった。地政学的にも日本は幸運だった。
  • 明治時代は西洋文化のピーク時とぶつかったので、今までの江戸時代は何をしていたんだと思って(江戸時代を否定して)も無理ない。
  • 信長が権威を壊し、秀吉が海外に出兵し、散々だったのでそれを受け継いだ家康は(国をまとめる事は)やりやすかったともいえる。
  • あまり知られていないが、家康は本の出版事業に力を入れた。「世の中が乱れるのは、人々が本を読まないからだ」ということで、全国津々浦々に「仁」をひろめようとした。
  • 農業生産性を上げようと河川改修、新田開発などを行った。
  • 教科書では江戸時代に一揆が頻発したので悲惨な印象があるが、当時の気候もよくなかった。また、ちょっとした事で農民は一揆を起こしたこともあった。
  • 参勤交代の良い効果としては、文化が広まったこと。また、全国から参勤交代の若者が江戸に来て交流したので、日本という国としての意識が高まり、明治時代への近代国家へスムーズに移行できた。
  • 寺子屋は一人一人個別に教えた。いっせいに同じ事を同じスピードで教えている今の教育とは違っていた。
  • 今は経済が一番上に来る。江戸時代は経済の上に武家の規範が乗っかっている。お金のことは口にするものではないという意識があり、世界的にもユニークな社会が出来上がっていた。
  • 外国人からは「警察、立法、軍事、を全て掌握している徳川家は富を溜め込んでいたのではないか」と思われるが、そんなことはまったくない。
  • 外国から親しくなりたいなと思われる人は、お金の話ばかりする人(経済)や、ものすごく腕っ節の強い人(軍事)でなく、話していて楽しい人(文化)だと思う。
  • 徳川記念財団はできてから4年目。江戸の研究に「徳川賞」を出したり、いろんな事をやりたい。

    川 恆孝(徳川恒孝、とくがわ つねなり、1940年2月26日生まれ)徳川宗家第十八代当主。実父は東京銀行会長・松平一郎。昭和39年・1964年、日本郵船(株)に入社。 元日本郵船副社長。財団法人徳川記念財団初代理事長。
  • 徳川記念財団のホームページ→ http://www.tokugawa.ne.jp/
  • 著書 『江戸の遺伝子 いまこそ見直されるべき日本人の知恵』PHP研究所、2007年3月 2470円(amazon調べ)
  • 石油も電気もなくて、食料を完全自給し、海外への派兵も行わず、身分制度を経済力でバランスさせて国内平和と独自の文化を花開かせたあの時代にあこがれてしまいます。(小生)
1:00~2:00JST 歴史にしたしむ
アンカー 川野一宇(Kawano-Kazuie)さん

安藤優一郎(あんどう ゆういちろう Andoh-Uichiro、 昭和40年・1965年生まれ )
日本の歴史学者。専門は日本近世史(都市史)。千葉県出身。早稲田大学教育学部卒業。同大学大学院文学研究科修了。『徳川将軍家の演出力』『徳川将軍家の演出力』『観光都市 江戸の誕生』『寛政改革の都市政策―江戸の米価安定と飯米確保』などの著作がある。

将軍の威厳・威光を保つため、いろいろと儀礼的な決め事があった。

徳川将軍が尾で島になると、「シー」と声がかかり静かにするように指示された。敬礼の意味。
・旗本・大名が将軍とお目見えできる。但し、面と向かって将軍の顔を見ることは出来なかった。
・武士は記録を余り残さなかった。明治初期に思い出して記述したか、幕末の外国人による記録がある。
・将軍から「面(おもて)を上げよ」と言われても、大名達は恐れ入って顔は上げなかった。

・将軍が公務で話す言葉は役者のセリフのように決まっており、老中任命の時には「念を入れて務めよ」。
・参勤交代で大名が領国へ帰る時に将軍が大名にかける言葉は「在所へのひまをやる。休息せい」。
・神田明神と山王神社のお祭りの時のみ庶民が江戸城に入り、将軍がそれをご覧になる。そのとき庶民は将軍と一体感を持つ。
徳川家持が長州征伐のときに一度将軍が馬上の姿を江戸っ子に見せた。保土ヶ谷では外国人たちも見た。
・将軍は前将軍の祥月命日に寛永寺、増上寺に公務としておまいりに行く。
・将軍が鷹狩をする日は江戸市中は火を使ってはいけないので、風呂屋も休みになった。
・将軍の行列は家の窓からは見てはならなかった。

・将軍家の記念日には大名達は特産品を献上した。次第に費用が掛かって行った。
・貰ったものは将軍の側近たち、大奥に下げ渡された。
・献上品を買い上げ、必要な人に売る「献残屋」があった。リサイクルショップのような商売。
・大名達は年に一度、将軍に刀と馬を献上する決まりがあった。
・その刀は真剣ではなく、木で出来た模造品の刀を納めていた。献残屋から買って使い回ししていた。
・馬は馬代としてお金を献上した。江戸時代は儀礼を大切にしていた。

・町入能、将軍の跡取が生まれると江戸の町の代表者たちが江戸城に招かれ、将軍と共に能を見た。
・この日と、祭りが江戸城に入る日は無礼講で多少騒いでも許された。

・江戸を見ることによって現代が分かる。現代を見る一つの方法としてのよい材料だとおもう。

本当の江戸時代の社会は、時代劇のテレビドラマで見る江戸時代とはひどくかけ離れたものだろうなあと想像はしていましたが、もしタイムマシンがあって江戸時代に行ったとしたら、道徳や行動様式、価値観が現代と通じているようでも全体として考えた時はまるで外国のように思えるのでしょうね。

しばし三千万日本人のすんでいた江戸時代に思いを馳せたのでした。
1:00~2:00 歴史に親しむ
  アンカー 川野一宇さん

 世界の巨大恐竜博2006 幕張メッセ会場にてインタビュー

・恐竜は2億3千万年前に現れ、6千5百万年前に姿を消す
・恐竜の化石は1820年代にアメリカで発見されたのが学術的には最初。現在のところ850~860種類発見されている
・90年代中盤より、中国で羽毛恐竜が発見され注目されている
・恐竜は絶滅したのではなく、鳥に進化して生き続けている
・日本でも恐竜の化石は見つかっている(北海道、近畿、四国、九州)
・一つ見つかると次々と見つかる。日本にはいないという思い込みがあったようだ

スーパーサウルスのコーナーに移動
・臨場感あるCG、音声での展示もある
・スーパーサウルスの展示、全長33m、展望台から全体を眺められる
・会場を見たところ、20体ほどの巨大恐竜の骨格標本がある
・モリソン層(アメリカ)から沢山恐竜の化石が出る
・長い首と長い尻尾がバランスしている
・大きくなった理由は、肉食恐竜から襲われにくくするためかも
・裸子植物を一日に数百Kg食べたかも
・足の骨は頑丈で重いが、背骨・首の骨は空洞があり、軽い
・スーパーサウルスの全体の組み立て骨格標本は、今回の展示のために世界初めて組み立てられた

羽毛恐竜のコーナー
・羽毛恐竜の骨格標本は一見の価値がある。中国遼寧省で発掘された
・恐竜が四本足で直立歩行したのは、エネルギー効率が良いため
・酸欠の水底に死体が沈むと、バクテリアが少ないので羽毛の残った恐竜の化石が出来る
・化石になるのは数千体死亡して、一体あるかないか
・化石の見つけ方は、餌であった植物・貝の化石があるところを捜す
・でも手作業で、昔と基本的なスタイルは変わらない
・ティラノサウルスは歯が鋭い。歯はバナナくらいある。噛み付いて骨もいっしょに砕いて食べるのかも

生命と環境のコーナー
・今地球には4千数百種の哺乳類がいて、恐竜の子孫の鳥類が9千種類いる
・恐竜絶滅の原因 隕石飛来説、火山活動説などがある はっきりしていない
・恐竜が絶滅したときに哺乳類、鳥類その他が生き残った理由が良く分からない
・人類は65億人地球上にいる。地球に対し大きな環境負荷の原因であり、いつ絶滅してもおかしくない
・どの生物も絶滅する
・人類の知恵で、どのくらい絶滅の時期を延ばせるか問われている

小林快次(よしつぐ)さんのメッセージ
・恐竜の進化と多様化、生命の素晴らしさを感じてほしい
・恐竜は(怪獣と違って)私たちと同じ生き物の仲間
・今年の夏はモンゴルゴビ砂漠へ行きます。恐竜を見つけてきます。


この夏休み、久しぶりに幕張メッセまで子供をつれて見に行こうかな。

以下に関係するリンクを上げときます。
世界の巨大恐竜博2006 
北海道大学総合博物館
小林快次

北大理学部の植物学科や化学科などが入っていた建物は博物館になっていたのですね。知らなかった...。
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