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3:00~4:00JST NHK Radio Program: "RADIO SHINNYABIN"
ラジオ深夜便 にっぽんの歌こころの歌 Japanese Sweet Songs
アンカー Anchor 遠藤ふき子(Endoh-Fukiko)さん
ラジオ深夜便 にっぽんの歌こころの歌 Japanese Sweet Songs
アンカー Anchor 遠藤ふき子(Endoh-Fukiko)さん
- ♪曲目 playlist♪
- ペチカ ボニー・ジャックス 作詞 北原白秋 作曲 山田耕筰 (大正12年 1923)
- からたちの花 米良美一(めら・よしかず) 作詞 北原白秋 山田耕筰 (大正14年 1925)
- 鐘が鳴ります 中沢桂 作詞 北原白秋 作曲 山田耕筰 (大正12年 1923)
- この道 五十嵐喜芳 作詞 北原白秋 作曲 山田耕筰 (昭和2年 1927)
- 六騎(ろっきゅ) 錦織健 作詞 北原白秋 作曲 山田耕筰 (昭和4年 1929)
- (録音-山田耕筰の歌と指導) 昭和5年 1930
- 山の小駅 美空ひばり 作詞 宮本吉次 作曲 山田耕筰 昭和30年 1955
- 中国地方の子守唄 美空ひばり 民謡 編曲 山田耕筰 (昭和3年 1928)
- 待ちぼうけ 岡村喬生(おかむら・たかお) 作詞 北原白秋 作曲 山田耕筰 (大正12年 1923)
- 曼珠沙華(ひがんばな) 奥田良三 作詞 北原白秋 作曲 山田耕筰 (明治44年 1911年)
- 野薔薇(野ばら) 島田祐子 作詞 三木露風 作曲 山田耕筰 (大正6年 1917)
- 赤とんぼ 日本合唱協会 作詞 三木露風 作曲 山田耕筰 (昭和2年 1927)
-
深夜便の歌
幸せのカノン~第2章~ 由紀さおり 作詞 山川啓介 作曲 パッヘルベル 編曲 坂田晃一
- 山田 耕筰(やまだ こうさく、明治19年・1886年6月9日生まれ - 昭和40年・1965年12月29日死去)
- 「録音-山田耕筰の歌と指導」は、『歌の歌い方から「からたちの花」と「この道」から善悪の例の比較』と副題がついて、実際に山田耕筰さんがピアノを弾きながら歌い方を指導しています。山田耕筰さんはこんなに美声だったとは知りませんでした。歌い方でフォルタメント、レガートなどの用語を交えて指導していました。高校の音楽を思い出しました。(小生)
- 遠藤アンカーは「山の小駅」の作詞を 成瀬純平 と紹介していましたが、JASRACのデータベースなどによると作詞者は 宮本吉次 です。(小生)
- 「曼珠沙華」は山田耕筰が北原白秋に出会って初めて生まれた名作で、歌曲集「AIYANの歌」(AIYAN「あいやん」とは柳川方言で下婢・子守女)全五曲の中の第四曲目の中に出てきます。詩の中に出てくる『GONSHAN(ごんしゃん)』とは北原白秋の生地水郷柳川の方言で、「良家のお嬢さま」という意味だそうです。この詩は明治44年に北原白秋が出版した歌集『思ひ出』に収録されています。詩集の冒頭にある「わが生ひたち」には
「美しく小さなGonshan. 忘れもせぬ七歳の日の水祭りに初めてその児を見てからといふものは私の羞恥に満ちた幼い心臓は紅玉入りの小さな時計でも懐中に匿してゐるやうに何時となく幽かに顫へ初めた」
と、初恋の Gonshan との出会いが記されています。詩の内容は、小さくして子を失った母親が、曼珠沙華が咲く頃、お墓参りする時の哀しみを詠ったものです。白秋白身の記憶にある二人の乳母の死という体験と重なって、生の脆さと死の恐ろしいほどの哀しみが伝わってきます。
北原白秋の没後50年以上経ているので著作権切れとなっており、以下にその詩を引用します。(小生)
曼珠沙華(ひがんばな) 北原白秋
GONSHAN(ゴンシャン)、GONSHAN 何処へゆく
赤い御墓の 曼珠沙華(ひがんばな) 曼珠沙華
今日も手折りに 来たわいな
GONSHAN、GONSHAN 何本か
地には七本 血のように 血のように
ちょうどあの児の 年の数
GONSHAN、GONSHAN 気をつけな
ひとつ摘んでも 日は真昼 日は真昼
ひとつあとから またひらく
GONSHAN、GONSHAN 何故なくろ
何時まで取っても 曼珠沙華 曼珠沙華
恐や赤しや まだ七つ
- 山田耕筰が創設した日本音楽劇協会のホームページ→ http://www.kt.rim.or.jp/~hy01-jmd/
- 「ペチカ」「待ちぼうけ」は大正時代末期に旧満州国の関東州教育会の依頼で作られたそうです。満州在住で育つ児童に満州色の豊かな歌を教えたいとの機運が高まり作られました。米国との戦争が近づく昭和15年頃になると内地の文部省が締め付けを始め、満州唱歌は歌われなくなりました。しかし、「ペチカ」「待ちぼうけ」のようにいくつかの歌は戦争を越えて歌い継がれています。小生の憶測ですが、旧満州国ではこれらの歌は大正12年に発表され、日本国内では大正15年に発表されたようなので、発売年は大正12年としました。(小生)
- 山田耕筰さんの曲を調べてみるといろんな歴史が出てきます。まだまだあったのですが、きりがないので今回はこの辺で。(小生)
日本の作曲家 東京都本郷の医師でキリスト教伝道者の父の下に生まれる。岡山の養忠学校や関西学院中等部、同本科中退を経て東京音楽学校予科入学、1908年、東京音楽学校(現・東京藝術大学)声楽科を卒業。
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